戊辰150年

今年は、戊辰戦争(会津戦争とも地元では言っています!)150年を各自治体では、いろいろなイベントを開催しています。そのイベントの一つ、会津坂下町中央公民館で開催された、「会津坂下町 会津戦争終結150年事業 歴史講演会」に行ってきました。

200名の予定が、会場に人があふれて、盛況でした。

講師の中村氏は、戊辰関係・会津関係の書籍を多数著作している直木賞その他の受賞作家です。

今日の講演は、「戊辰150年」は東北の言い方で、関西以西では「維新150年」という言い方を使っている、と。維新とは=これ、あらた、であり、何が新たになったのかとおっしゃっていました。

日頃思っていたことを明確に話してくれました。

メインの話は、会津の人物像で、「秋月悌次郎(ていじろう)」「伴百悦(ばんひゃくえつ)」「中野竹子」「町野主水(もんど)」などなど。

秋月悌次郎=熊本五高の同僚小泉八雲をして「神様のような人だ」と言わしめた。会津の将来を考えて、少年2人を連れて、束松(たばねまつ)峠を潜行して越え、たった一度漢文を教えた長州藩の奥平謙輔に委(ゆだ)ねた。少年の一人山川健次郎は後に東大と京大の総長になった。秋月悌次郎は私も尊敬している人物です。(北見に左遷されたり、いろいろあります。)今峠の頂上には、秋月が作った漢文「北越潜行の詩」の碑が建っています。ワシは何度か現地に行って見ています。同級生の皆さんも、良かったらご案内しますよ。

伴百悦=会津藩の剣豪、会津戦争の戦死者遺体を、新政府は埋葬することを許さず、9月から翌年2月まで、野山にそのまま野ざらしさせた。伴は翌年雪の下から、その腐敗している遺体を、千体以上埋葬することに尽力した。新政府の非道さのゆえに、その民政局の久保村某を「許さず」と誅殺する、「束松事件」を引き起こした。

町野主水=伴とともに戦死者の埋葬に尽力した。「最後の会津武士」と言われた。


(追9.17)この講演で、長年疑問に思っていたことの一つが、解明された。それは、

「秋月悌次郎は、なんで西軍の熊本にある熊本五高に勤務したのか?」ということ。若い時から、秋月悌次郎が敵地に職を得たことが不思議でならなかったが、中村氏の話でわかった。

「講道館を開いた嘉納治五郎が、秋月を五高に招いた。それはなぜかというと、嘉納治五郎は、「薩長土肥を中心とする新政府になってから、人間の(官憲の?)品格・品性が低劣になった。これを正して行くには、会津藩から高潔な人を招き、師と仰ぐしかない。」と考えていたので、秋月悌次郎を招いたのだ。」とお話しされたので、ああ、そうだったのかと腑に落ち、納得した。(追終わり)


気持ちよく聞けた講演でした。同級生の皆さんにも聞かせたかった。


4年前に、知人と「北越潜行の詩」碑を訪ねた時の写真です。

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旧山郷中学校、現高郷中学校の33回生が集うHPです。 昭和の激動を生き、平成、令和を穏やかに過ごしている仲間たちが、素になり子供に返って楽しく過ごせるひととき。 そのような小さな場を、懐かしく思える場を、提供出来れば、と思います。

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