高稜山岳会考

飯豊山への憧れ

最近しきりに、母校高郷中(旧山郷中)のグラウンドからも見える飯豊山の姿が思い出される。一番景色が良く見えるのは、池ノ原へ行く途中から見た、前景に山郷発電所のダムと西海枝(さいかち)のボートレース場を配した、真っ白の飯豊山の姿。(そのうち写真を載せるよ)

春夏秋冬、飯豊山とあのクマ公がいる谷澤を配した岩山の姿が、寝ても起きても、時折頭の中をよぎる。冬山の谷筋なんかは、冬に行った事もないのに、シンと静まった光景を想像して、もうたまらなくその場に身を置きたくなるのだ。

昔は、山、そのものよりも、その場に身を置くために、使わない鍋釜までを含めた重い荷を背負い、体の限界まで無理をする、いわば自分自身をいじめ抜くような登山をしていたけど、中年頃からは、その場その場の一瞬を楽しみながら、過ごす山登りをするようになった。

大体は単独行、飯豊山もほとんど一人で、冬を除いた三季節を経験して、本当にいい山だと思っている。

智恵子の空で人工衛星を見た

郡山に転勤し、夏の夜に、終列車で二本松に行き、懐中電灯で夜から朝にかけて安達太良山に登ったが、登っている最中に、星のようだが明滅しない光が、動いているのを見て、人工衛星だと初めてわかった事もいい思い出だ。

何でこんなに、山ん中にいて、山登りが好きになったのだろうと、不思議になる。

初めての登山は、高二の時、夏休みに、一年先輩のSさん(いまや山岳保険の理事となっているのをネットで発見して驚いた。一昨年11月に、彼の叔母さんの葬儀で数十年ぶりに会って言葉を交わした。国内で珍しいが大切な商品を作る会社をやっていたのは知っていたが、昨年(=H27だから何歳?、73か74?)やっと退職したから、ヒマラヤをトレッキングしてきたと、嬉しそうに話していた。昔と変わらない、山男なら、かくありなんという誠実さや懐の深さを感じさせる話ぶりで、昔、その叔母さんに聞いていた、とってもいい話を思い出して心が温かくなった。)と同級生のW君と三人で、2泊3日の山都から新潟の新発田までの縦走コースだった。真夏の暑さと長距離でトヘトになって辛かった。東赤谷駅(今は廃線になって無い)まで、ダンプカーの往来でほこりだらけになって歩いた事を鮮明に覚えている。

それが、地元に転職してから、合間を見つけては、川入の登山口から飯豊山の本山の先、お花畑までの日帰りコースを、数え切れないほど一人で繰り返すようになった。

山岳会設立へ

そのうち、それまで全然知り合いでなかった(付き合いがなかった)、2,3歳若い漆窪のS君(海外青年協力隊に行きその後福島のMP新聞社就職)や、西羽賀のH君(若くてもいろいろの事業をしていた)が一緒に、と言い出して、時々同行して山に行くようになった。

しばらくすると、WA建設の社員たちや、麹屋店主、東羽賀の妙齢の女性Yさんなど、20人くらいの集まりになって、一つの団体の体をなしてきたので、山岳会を発足する事にした。

名前は「高稜(こうりょう)山岳会」、仕事でガリ切りの経験があるので、会誌「高稜」を発行した。

鳥屋山登山道の開発

現在、会津地方で山開きのトップを切る「鳥屋(とや)山」、580mの低山でありながら、一等三角点がある山として珍しく、登山道もなかった山だったが、会員や役場、地元の人たちの協力で木の根や笹藪を刈り払い、道路の整備などをして開発、いまや、毎春、「山開き」行事が盛大に開催されている。


今年の山開きは4月14日(日)・・・・下記のリンクで 

高稜山岳会 山行の一部

会員と一緒に泊まりがけ(民宿)で、只見の浅草岳に登った事も良い思い出だ。

浅草岳の山開きに合わせて、前泊した夜、みんなで「前夜祭」の集まりに出かけた。

踊りや花火もあって楽しかったが、どのようないきさつだったか、地元理容店の女性が、会員たちと一緒だったのが、影絵のような思い出となっている。

そして、登山日当日、山開き行事会場で、主催の町役場職員に、かつての若松の職場で同僚だったW君の姿を見て、驚いた。話を聞くと、地元役場に転職したと。忙しくしていたので、その後あまり話は出来なかったが、偶然という出来事はあるもんだなと思った。

高稜山岳会とアマチュア無線クラブ

あの頃は、山岳会=山に登る人=(携帯などなかったから)アマチュア無線をやる人、と自然とつながっている時代だった。山で何かあると、アマチュア無線で情報や連絡、救助・援助が盛んにやられている事が多かった。

高稜山岳会も自然とアマチュア無線をやる人たちが多くなり、特に会員の若い人たちが熱心に取り組むようになり、西海枝のT君などは、社交性を発揮して、会津地域の無線仲間と活動して、免許を取るための講習会開催まで取り組んだ。

自分は一足先に、仙台の電波監理局で「無線従事者国家試験」というものを受験して、電波局を開設していたので、T君の講習会には関わらなかったが、山岳会と、後に設立した「高郷アマチュア無線クラブ」の活動として、鳥屋山山頂や、富士山(西会津と高郷の境に、あるんだよ!この名前の山が)山頂などから、無線サービス(カード発行)を実施した。

電波を発砲!(物騒な言い方だが、=発信する事)するのに、機械や重い重機(ブルドーザー用、重い!なんちゅうもんじゃなかったよ。おまけに鳥屋山の裏山=西会津町の松尾の山から、道もないヤブコギして頂上に向かったのだから、エレー疲れて、無線交信どころじゃなかったよ。)のバッテリを担ぎ上げた時は辛かったが、富士山で夜にかけての焼き肉パーティは楽しかった。

転勤になって離れざるを得なくなった

一生転勤など無いだろうと思っていた地元の職場だから、わざわざ郡山から転職して帰ってきたが、時代の流れか、家持ちの親玉を除いた職員は、最低3年いたらどうしても転勤しなくちゃならないという制度になって、流れ流れの稼業が始まった。以後リタイアするまで、通勤片道27キロや30キロの職場もある、そんなところを6カ所も異動させられた、動かないヤツは相変わらず一生動かないでいられるのだから、とんでもない不公平な人事制度だった。今も続いているんだろうが。

おかげで、家の事ももちろん、山岳会のことや無線クラブの事もこれからという時に、全然携われなくなって、活動から離れざるを得なくなった。以降、現在に至っているから、今活動がどうなっているかわからない。時々地元紙に載る記事で知るのみだ。

あの当時の仲間、山の仲間、無線の仲間、みんなの元気と活躍を祈るばかりだ。

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旧山郷中学校、現高郷中学校の33回生が集うHPです。 昭和の激動を生き、平成、令和を穏やかに過ごしている仲間たちが、素になり子供に返って楽しく過ごせるひととき。 そのような小さな場を、懐かしく思える場を、提供出来れば、と思います。

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